2016年3月28日月曜日

「象徴」とは何なのか?

J.ボードリヤールが期待した「象徴交換」の「象徴(symbol)」とは、どのようなものなのでしょう。

彼はその著『象徴交換と死』(L'Échange symbolique et la mort、1976)の中で、私たちの生活世界を「象徴界現実界想像界」を分けたうえで、それぞれの関係について述べています。要旨は以下のようなものです。

●象徴界とは、概念でも、階級でも、カテゴリーでも、構造でもない。それは、交換という行為によって、現実界を終わらせ、現実界を解消し、同時に現実界と想像界との対立をも解消する、ひとつの社会関係である。

●象徴界は、分離のコードと分離された対象という対立に終わりを告げるものだ。それは、魂と身体人間と自然現実と非現実誕生と死という対立項を終焉させるユートピアである。象徴界の働きによって、それぞれの事象を対立させている現実原則の意味は失われていく。

●我々とは現実原則の対立項によって、上記のように定義された生者であるが、それゆえに、死とは我々の想像界の事象ということになる。同じように、現実界のさまざまな区別を基礎づけている、あらゆる分離の原型は、生と死との根源的分離のなかにある。

●いたるところで、象徴界は現実界と想像界のそれぞれの魅力を終わらせ、精神分析が描き直したような覚の閉鎖性もまた終わらせる。しかし、精神分析はこの閉鎖性のなかに閉じこもって、多数の分離(一次過程/二次過程、無意識/意識など)により、無意識の心的現実原則(精神分析の現実原則としての無意識)を提起してしまった。その意味では、象徴界はまさに精神分析にも引導を渡している。


以上のように、ボードリヤールは「象徴界」を「現実界(例:生きているという現実)」と「想像界(例:死んでいるという想像)」の外側にありながらも、交換という行為によって両界を交流させる世界、と位置づけているようです。

このブログで述べてきた
生活世界の構造に当てはめてみると、現実界とは、人間という〈種〉に備わっている〈感覚〉によって、周りの環境を「身分け」し、把握できる範囲での〈物界〉=〈モノ界〉であり、また想像界とは、人間の〈シンボル化能力〉、つまり〈言語能力〉によって、〈モノ界〉を「言分け」し、言語化した世界=〈コト界〉ということになります。

とすれば、象徴界とはモノ界とコト界を交差させる世界、あるいは、モノ界からコト界を創り上げる、人間の能力が統合的に作りだしたシンボル世界、ということになります。

このように考えると、精神分析ヘの批判はやや的外のような気もします。なぜなら、精神分析の扱っている対象とは、シンボル化能力の中の下層段階と上層段階の境界そのもであるからです。象徴交換とは両段階の間で行われる行為であり、象徴界とはモノ界とコト界の間にあって両界を創り上げている世界そのものなのです。

とすれば、「象徴」という言葉は、もっと柔軟に使うべではないでしょうか。

2016年3月18日金曜日

象徴交換へ期待する!

J.ボードリヤールが期待する「象徴化」とは、いかなるものでしょうか。彼はその著作の中で、2人の文化人類学者の言説を引用しつつ、次のように説明しています。

まず『記号の経済学批判』(原題:Pour une critique de l'économie du signe,1972)の中では、B.マリノフスキーの説を引用して、以下のように述べます。

●トロブリアント島の人々の、財の消費という制度では、経済的機能と記号的機能との区別が徹底されている。物が2種類に分けられたうえ、それを基準にしてクラギムワリという2つの平行するシステムが結合されている。

クラというのは、腕輪、首飾り、装身具の連鎖状の贈与と流通に基づく象徴交換システムであり、これを中心に価値と身分の社会システムが組織されている。他方、ギムワリは、生活必需品の交易である。このような隔離は、われわれの社会では消え去ってしまった(もっとも全面的にではなく、嫁入りの持参金、プレゼントなどとして残っている)。

●しかし、購買、市場、私的所有といった上部構造の背後には、つねに社会的給付のメカニズムが働いているから、われわれの選択、蓄積、操作、財の消費の中に、それを読みとることが必要だ。それは、差別と威信のメカニズムであって、社会の価値体系と階層秩序を統合する土台となっている。

●クラとポトラッチ(注:太平洋岸北西部先住民族の蕩尽的饗宴)
は消滅したが、それらの原理は消滅していない。われわれは、この原理を物の社会学的理論の土台にすえたいと思う。この原理は、物が多様化し、分化するにつれて、それだけ一層真実味をおびてくる。

こうした視点の背景となった未開社会の構造を、『消費社会の神話と構造』(原題:La Société de consummation,1970)の中では、M. サーリンズの業績を紹介しつつ、次のように書いています。

●狩猟=採集生活者たち(オーストラリアやカラハリ砂漠に住む未開の遊牧民)は絶対的「貧しさ」にもかかわらず真の豊かさを知っていた。未開人たちは何も所有していない。彼らは自分の持ちものにこだわることもなく、それらを次々に投げ棄てて、もっとよいところへ移動していく。「生産装置」も「労働」も存在しないので、暇をみつけて狩や採集をし、手に入れたものすべてを彼らの間で分かちあう。何の経済的計算もせず貯蔵もせず、すべてを一度に消費してしまうから、彼らは大変な浪費家である。

狩猟=採集生活者はブルジョアジーの発明したホモ・エコノミクスとはまったく無縁であり、経済学の基本概念など何一つ知らずに、人間のエネルギーと自然の資源と現実の経済的可能性の手前に常にとどまってさえいる。睡眠を十分にとり、自然の資源がもたらす富を信じて暮している(これが未開人システムの特徴である)。

●ところが、われわれのシステムの方は、不十分な人間的手段を前にした絶望や、市場経済と普遍化された競争の深刻な結果である根源的で破局的な苦悩によって(それも技術の進歩とともにますます強く)特徴づけられている。

●だが、サーリンズもいうように、貧困とは財の量が少ないことではないし、目的と手段との単純な関係でもない。それはなによりも、人間と人間との関係なのである。未開人の信頼を成り立たせ、飢餓状態におかれても豊かに暮すことを可能にしているものは、結局、
社会関係の透明さと相互扶助なのである

●贈与と象徴的交換の経済においては、ほんのわずかの、常に有限の財だけで普遍的富を生み出すのに十分なのだ。なぜなら、それらの財はある人びとから他の人びとへと絶えず移動するからである。富は財のなかに生じるのではなくて、人びとの間の具体的交換の中に生ずる。したがって、富は無限に存在しているのだ。限られた数の個人の間でも、交換の度ごとに価値が付加されてゆくうえ、交換のサイクルには限りがないのだから。




こうしてみると、ボードリヤールは、文化人類学者2人の指摘した「象徴交換」という未開制度の中に、「記号=差異化」制度を超える、より普遍的な交換・消費制度を展望していたのではないでしょうか。

2016年3月5日土曜日

ボードリヤールも批判する!

スティグレールやヤングが激しく批判しているのは、「差異化」という手法が権力や優越感などを生み出す「差汎化」の思想と結びつき、不平等や差別といった、さまざまな社会的罪悪を生み出している、という実態です。
 
実をいえば、こうした指摘は、差異化手法の思想的根拠ともなったJ.ボードリヤールの著作の中にも、しばしば登場しています。


例えば初期の代表作『記号の経済学批判』(原題:Pour une critique de l'économie du signe,1972年)の中では、過激な言葉を使って、次のように表現されています。

  • (差異化を生み出す)意味作用は、積極性と価値との支配下における意味を管理する、機能的・テロリスト的な機構として、何らかの物象化に繋がっている。
  • 意味作用とは、記号の増幅された体系を通して、意味の枠付けという社会的・政治的テロリズムまでも反映した、基本的な客観化の場なのである。
  • 権力の体系のあらゆる抑圧的・還元的戦略は、交換価値と政治経済学との内的論理の中にあるのと同じように、すでに記号の内的論理の中にもあるものだ。
  • すべての命名の起源である意味作用は、価値についてしか語ることができない。象徴的なものは価値ではないからである。象徴的なものとは、記号の価値・積極性の喪失・溶解そのものなのである
  • 私は、象徴〈象徴的なもの・象徴交換〉という言葉を、記号・意味作用の概念に対立し、むしろそれらに徹底的に代わるものとして使いたい思う。 
  • 記号と価値を抑制して、象徴的なものを回復させなくてはならない。それは、理論的・実践的なすべての革命において行うべきだ。
     
このように述べて、ボードリヤールは「差異化=記号化」の彼方に、「象徴化」を展望しています。象徴化とは一体いかなる手法なのでしょうか。