需要側の主体である個々人が、新たな方向へ向かうとすれば、生活資材の供給側である企業は、どのような行動をとればいいのでしょうか。
いうまでもなく、個々人の象徴・感覚領域へ無遠慮に侵入したり、好都合な方向へ誘導するような行動が許されるものではありません。もしも強引にそんなことをすれば、より激しい拒否やもっと厳しい排除に出会うことになるでしょう。
そうした事態を考えると、企業や非営利組織などが、外側から応援できることは、次のような行動に限られてきます。
①個々人の感覚回復を支援すること。具体的にいえば、言語以前の体感的、直感的な次元への回帰を支援するため、原始的な生活や動物に囲まれた環境を提供する「原始・動物力支援」、温泉浴、森林浴、海水浴など、生れたままの人間に立ち戻って、伸びやかに自然と戯れられるような環境を創り出す「体感・感覚力支援」などが考えられます。
②無意識への回帰を支援すること。実際の方法としては、睡眠、催眠、酩酊などで適切に没我の境地へ導く「没我力支援」、身体や感覚を研ぎ澄ませて、霊感や六感を増加させる「直感力支援」、無意識の次元に立ち戻って、自らの原点を確認し、それを社会に向けて広げさせる「自己対面力支援」などが考えられます。
③象徴力の強化を支援すること。例えば、個々人の意識下に潜んでいる元型に出会えるような機会を増やす「象徴・元型支援」、宇宙、大地、山野、大海など、潜在意識の中から「絶対に変わらないもの」を探しだして、体験させる「不変物信仰支援」、普遍かつ壮大なものに触れさせて、私や個を超えた次元を体験させる「集合的無意識支援」などが考えられます。
いずれの行動についても、圧倒的な記号の洪水に対抗していくには、非記号的な力の拡大を支援することが求められます。それは、水平的な「差異」の強調よりも、垂直的な「根源」へ下降していくことを意味しています。記号のネウチが記号相互間の違い、つまり「差異」に基づいている以上、その跳梁を打ち破るには、「差異」よりも「深化」を重視することが求められるのです。
差元化の基本的な方向とは、私たちの生活の根源を深めることといえるでしょう。
過剰な差異化現象、つまりカラーやデザインからネーミングやストーリー、さらにはブランドやファッションなどの紡ぎ出す、さまざまな悪弊から、私たちの初々しい生活世界を守り抜くにはどうすればいいのでしょうか。
まずは現象学の「エポケ(epokhē:判断中止)」を応用して、記号界のさまざまな「欲望」をかなぐり捨て、そのうえで生理的な「欲求」や無意識的な「欲動」の次元へ降りていきます。すると、そこに見えてくるのは象徴や神話の世界です。さらにその下には無意識や本能の世界があり、もっと下には感覚や体感の世界が広がっています。
記号化される以前の世界(モノ界)はおおむねこの3層で構成されていますから、そこから生まれてくるモノ=象徴によって、肥大化するコト=記号に対抗していくことができれば、モノとコトのバランスを回復することができるはずです。果たしてそれが可能なのか、一番下の感覚から入って、無意識、象徴の順に考えてみましょう。
①感覚の次元
感覚次元では、個々人の身分け能力、つまり五感や六感などの感覚をいっそう鋭敏にすることが求められます。マーケティングやマスメディアの作り出す幻想を最終的に打ち破るには、なんといっても自らの感覚を研ぎ澄ますことが必要です。
最近では不況のせいで、消費者の多くが「みせかけ消費」や「あこがれ消費」を脱して、「身の丈消費」や「実質消費」に移行していますが、その時、モノ選びの基準として頼れるのは、惑わされやすい視覚よりも、触覚や嗅覚など自分自身の感覚です。
こうした感覚を取り戻すには、一旦は理性的、合理的な鎧を脱ぎ捨てて、直感的、感覚的な裸身をさらけ出す。野性的な動物や出産直後の乳児などの次元に立ち戻って、触覚、嗅覚、聴覚など視覚以外の感覚、つまり肌触り、快感、快汗、芳香、悪臭、美声、騒音などに敏感になることが必要です。
②無意識の次元
無意識次元においても、身分けと言分けの接点から生まれてくるカオスや本能の動きに、こまめに注意をはらっていく。それらは通常、意識下の暗い深淵に潜んでいますが、時折、夢や幻想などの形をとって噴出し、記号で覆われた欲望の厚い膜を突き破ってきます。
とすれば、無意識や本能が見えやすい環境を、積極的に作り出したらどうでしょうか。眠り、酩酊、陶酔といった状況に自らを追い込んで、その中でたっぷりと夢や幻想を味わい、そこから生来の直感力や超能力を回復させる。それができれば、外部から誘導された欲望の虚構性が自覚され、生身の生活願望が見えてくるはずです。
③象徴の次元
象徴次元では、シンボルや元型の動きに注意を払うべきでしょう。先に紹介したユングによると、「象徴(シンボル)」という言葉は、既成の言語体系が形成される以前の未言語段階、あるいは前言語段階の意味体系である、と定義されています(『人間と象徴』)。私たちは、感覚や無意識でとらえたものを言葉で表す前に、より始原的なイメージによって表現している、ということです。
以上にあげた、3つの方法によって、個々人の持つ感覚・無意識・象徴力が回復できれば、私たちは記号の専横を少なくとも抑制することができるはずです。そこで、この3つの方法をまとめて「差元化」とよぶことにしましょう。
現代思想の分野では、観念・意識・記号の世界を生み出す力を言葉の差異に求めて、「差異化」とよんでいます。これとは正反対の感覚・無意識・象徴を強める力ですから、ユングの元型論に因んで、「差元化」と名づけたのです。
差元化は、モノ界の比重を再確認することで、肥大するコト界に拮抗させ、コトとモノのバランスを回復することを意味しています。
こうした方向を基盤にして、本来の意味での「モノづくり」力が回復できれば、マーケティングが衰弱させた「コトづくり」力やアイデンティティーを、もう一度甦らせていくことも決して不可能ではありません。
「象徴」という言葉には、多様な意味が含まれています。
英語のシンボルsymbolや仏語のsymboleなどの語源は、ギリシア語の動詞 symballein(一緒にする)の名詞形 シュンボロンsymbolonに由来しています。
Symbolonとは、何かのものを2つに割って2人の人間が分有し、それぞれをつきあわせて、相互に身元を確認しあうもの、つまり「割符」のことです(世界大百科事典)。
これが諸科学に応用されて、さまざまな形で使われるようになりました。主な用法は次の3つです。
① 直接的に知覚できない概念・意味・価値などを、それを連想させる具体的事物や感覚的形象によって間接的に表現するもの・・・哲学・心理学など。
② 記号のうち、特に表示される対象と直接的な対応関係や類似性をもたないもの・・・言語学・記号学など。
③直接的に表しにくい観念や内容を、想像力を媒介にして暗示的に表現するもの・・・芸術・美学など。
このうち、生活学やマーケティングで使用するには、すでに「サインとシンボル・・・どこが違うのか?」で述べたように、心理学・分析心理学の用法に従うのがベターだと思います。
先に紹介したC.G.ユングによると、「象徴(シンボル)」という言葉は、既成の言語体系が形成される以前の未言語段階、あるいは前言語段階の意味体系だ、と定義されています(『人間と象徴』)。
この意味での「象徴」は、私たちは、感覚や無意識でとらえたものを言葉で表す前に、より始原的なイメージによって表現している、ということです。
この種のシンボルは、さまざまな民族の神話や昔話などの間で極めて類似しています。例えば、大地母、童子、老賢者、道化、仮面、影などのキャラクターは、母、子ども、老人、ピエロ、悪者などを示す共通イメージとして、人種や民族を超え、人類一般に広く共通しています。
ユングはこれらを「元型(archetype:アーキタイプ)」と名づけました。そして、元型が民族を超えているのは、その一つひとつが人間の基本的な存在形態を象徴しているからだ、と述べています。
元型とは、人類の中に潜む集合的無意識がさまざまな願望を表現する時の「原始心像」であり、その心像の<元>となる型が予め無意識の中に存在する、と考えているのです(『元型論』)。
集合的無意識というのは、一人ひとりの個人を超えて、日本人とか中国人とかいった民族や集団の心の底に潜んでいる願望のことです。通常は意識されませんが、夢や神話などの形をとって時々私たちの前に現れ、穏やかな自然や懐かしい母胎を思い出させ、自由や安らぎを回復させてくれます。
とすれば、記号の氾濫を打ち破るには、この元型を拡大させればいい。始原的なキャラクターに触れ合ったり、それらを幾つか組み合わせた神話やおとぎ話を振り返ることができれば、私たちの心の深層にある沃野に立ち戻って、個人を超えた集合的無意識を再確認することができます。
そして、その延長線上には、「象徴交換」という互酬的な社会制度も見えてきます。ボードリヤールがはるかに期待した、ポリネシア原住民の「クラ」やアメリカインデアンの「ポトラッチ」という交換制度なのです。
以上のように、「象徴」という言葉を心理学的に使うと、サインや記号の乱用による「差異化」の弊害を、積極的に救済する方向が見えてきます。