スミスは1776年にその著『富国論』(『諸国民の富』大内兵衛・松川七郎訳、岩波文庫版『富国論』)の中で、「価値(value)ということばには二つの異なる意味がある」と述べています。
一つは「ある特定の対象の効用(utility)」を表現し、もう一つは「その特定の対象を保有することによってもたらされるところの、他の財貨に対する購買力(power of purchasing other goods)」を意味しています。
そこで、前者を「使用価値(value in use)」、後者を「交換価値(value in exchange)」と名づけました。
両者の違いを説明するため、スミスは水とダイヤモンドをとりあげ、「水ほど有用なものはないが、それでどのような物を購買することもほとんどできない」のに対し、「ダイヤモンドはどのような使用価値もほとんどないが、それと交換できるきわめて多量の財貨をしばしばえることができる」と述べています。
水の使用価値は極めて高いけれども交換価値は低く、ダイヤモンドの使用価値はかなり低いものの交換価値は高い、ということです。
その理由として「交換価値の実質的尺度とはどのようなものであるか」と問いかけ、ある商品の交換価値とは「その商品がその人に購買または支配させうる労働の量に等しい」から「労働はいっさいの商品の交換価値の実質的尺度である」と述べています。
ダイヤモンドの交換価値が高くなるのは「希少性」、つまり「それをかなり大量に収集するためには多量の労働」が必要であるからだ、というのです。
これこそ「交換価値は労働に準拠する」という、古典派経済学の「客観価値説(労働価値説)」の原点となった理論です。
売り手・買い手という立場から「価値」を見て、人間の労働が「価値」を生み、労働が商品の「価値」を決める、という発想であり、スミスからD.リカードを経てK.マルクス、さらには近代経済学にまで至っています。
こうした理論を生活学の立場から見ると、「ねうち・あたひ」論を「有用性=使用価値・相当性=交換価値」論に置き換えたということであり、「あたひ=相当性=交換価値は労働の量から生まれる」という方向へ、価値論の重点が移されています。
いいかえれば、一人の人間にとっての「ねうち」よりも、他人と交換する時の「あたひ」の方に重点が移行している、ともいえるでしょう。
さらにいえば、西暦200年代に中国で使われた「價直」の、「價=あたひ」と「直=ねうち」の二重性がほぼ1500年後のイギリスにおいて再認識された、ともいえます。
「あたひ=價」論を中心にして古典派経済学が成立し、マルクス経済学から近代経済学へと発展してくるという経済学の立場はそれなりにわかります。
だが、「ねうち=直」論のほうは、一体どうなってしまったのでしょうか。
「あたひ=價」論を中心にして古典派経済学が成立し、マルクス経済学から近代経済学へと発展してくるという経済学の立場はそれなりにわかります。
だが、「ねうち=直」論のほうは、一体どうなってしまったのでしょうか。